三度の震災と豪雪を経験した農家がある。新潟県にある「フェアリーズ・ファーム(FAIRY'S FARM)」だ。
同ファームは2月23日の豪雪を受け、機械を格納していた倉庫が倒壊。トラクターなどの機械1600万円相当が損傷あるいは壊れて使えなくなった。
倉庫はこれに先立ち新潟県中越地震(2004年)、新潟県中越沖地震(07年)、「3.12」(3.11翌日の地震)にも見舞われてきたが、それらによる損傷や磨耗も蓄積していたと思われる。
ファームを支援する有志は、小屋の撤去作業に必要な費用の募金を呼び掛けている。
【雪国】
まずは、現場がどのような場所なのかについて。
同ファームは新潟県の中魚沼郡津南町にある。「魚沼産コシヒカリ」の魚沼である。同県の最南端に位置し、長野と県境を接している。自然が豊かで、山道をドライブしていたらキジが出た。
降雪期間は長く、ファームの代表によれば、11月には「いつ降ってもおかしくない」状態になり、なくなるのは5月のゴールデン・ウィークの頃だという。また、積雪の高さは2階の窓から雪が見えるほどだ。これはたとえ話ではなく、3月8日の時点で、代表宅の窓と同じ高さに雪が迫っていた。家の玄関にはスキー道具が置いてあり、子どもは草野球にでも行くかのようにスキーを滑りに行く。
【早河代表】
代表の早河聖光氏(以下、敬称略)とは、早河の友人を交えて新潟県十日町のカフェで対面した。雪焼けした顔に微笑みを浮かべる早河。私の目には疲労と悲しみが滲んで見える。話し方はナレーターのように落ち着いている。語尾がすっと解ける語り口だ。
早河の友人が去ったところで、私たちは二人で事故現場に向かった。また今回の取材では、早河宅に泊めてもらい、農園での作業も見ることになる。本ブログは「発言内容はそのまま掲載する」という方針だが、今回の取材に際して私は、発言は何度でも、気持ちの通りの表現になるまで言い直してほしいと伝えてある。「そのまま掲載する」という方針は変わらないが、言葉を額面通りにとらえて内心と違うことを書くのは避けなくてはならない。
早河は電通子会社のイベント事業部に勤めていた。渡米したり、ガーデニングの設計•施工をしたりした時期を経て就農。新潟県の新規就農者への研修を受け、29歳のときにユリ切り花農家として独立した。
ユリ農家を始めたきっかけは、昼寝中に夢でユリを見たから。目の前で開花したユリが美しかったのだという。
田んぼも少しだけ始めた。しかし、研修では習っておらず、「あささ、田んぼどうやって作るんだい」と困った。師匠に聞いたら「隣のじいさんと同じことしれ!」と言われ、「えー!」と思ったと笑いながら語る。
それでも3年後には、ユリは初年度の3倍、田んぼは10倍の規模になっていた。5年で達成する計画を3年でクリアしたため、県から農業後継者として認定された。周囲からは「東京者(もん)が3年でやっちまった」と評価された。
妬まれることはあったか?
「あ!ったよ!」
肥料を盗まれたり、貯めた水を捨てられたりしたこともあった。それでも、早河は「意地悪されるほど大きくなったんだ」と考えた。
早河は毎日3:30に起き、4:00に家を出る。農作業して21:00に帰宅する。これをほぼ無休で続ける。5時間の休みが取れる日が10日あれば良い方だという。身体への負担が大きい仕事だが、早河は自らを肉体労働者ではなく「アスリート」と呼ぶ。農作業の合間やオフシーズンにジムに通う。これにより動きが変わってくるのだという。
早河は就農したときから、人の3倍努力すると決めていた。
「フェアリーズ•ファーム」の由来について。これは、作物には妖精が宿っているという考えからきている。早河がある人から、「周りに妖精がいっぱい飛んでるね」と言われたのがきっかけだ。
同ファームではユリ、コメのほか、夏イチゴやシイタケも扱っている。早河の魚沼産コシヒカリのご飯をご馳走になったが、本当に美味しかった。冷めると、冷めたときの味わいがある。イチゴのゆべし(柚菓子、写真参照)も、もちもちした食感でいける。
【早河と夏イチゴ】
早河がイチゴを始めた経緯は不思議な偶然で溢れている。
早河は数年前、福島から津南に来たイチゴ農家から一時的にイチゴを預かった。まだ自分が扱う気はなかったが、その農家から食べさせてもらった夏イチゴの美味しさに驚いていた。その農家は結局、福島に撤退。「夏イチゴに興味ないですか?あるなら、プランターを安くお譲りしますよ」と告げ、早河の手に渡ることになった。
市場関係者に話を聞き、栽培困難だが高価であることを知った。その関係者からは「目ざといな」と言われた。彼の子会社が、夏イチゴの栽培をしているのだという。半ば成り行きで預かったのが始まりだったが、すごいものを選んだようだった。
早河はそれより前から、「何か生活に余裕が出る産品を」と探し求めていた。稲やユリが拡大するたびに、ファームの規模は大きくなるが、早河は自由な時間を削ることに。管理が行き届かない部分も出てイライラしはじめ、家で子どもに辛い想いをさせたこともあったという。
また、数年前から「機械に頼らずやっていけるようにしよう」という判断もしていた。稲、ユリは機械に頼る。イチゴについてはそれはない。
こうしてイチゴ栽培も始めることになるわけだが、さかのぼると、「子どもについたホラ」が現実になったのかもしれない。息子がホームセンターで購入し、表で育てていたイチゴが鳥に食べられた。しょげる息子に、「お父さんがハウスで育ててあげるから!」と言ったのだった。
そして今、本当に夏イチゴを扱っている。
品種名は「ティンカーベリー」である。
【事故を受けて】
事故当時からここまでの状況を伺った。早河は事故のことを知った際、「困った」「どうしよう」などという前に、冷静に気持ちを保つことを優先し、現場に向かった。
現場を見てまず取った行動は、二次被害を防ぐこと。崩壊した倉庫が道路の方に倒れれば、通行人や車両に被害を出すことになる。自分の機械の心配よりも、人様に迷惑がかからないように、という方が先だったという。
それから、である。二次被害の可能性をなくし、それから、機械の上に乗っているものをどかす段階になってようやく、機械の心配をしはじめた。
もう使えなくなった機械があった。機械の「安否」が分かってからようやく、辛さを感じはじめた。
これより前にも、自然災害によるショックを受けることは何度もあった。2012年9月17日、風速15から20mの強風が丸一日吹き付けた。ユリのつぼみがスレて傷み、約1万3000本、300万円相当が商品にならなくなった。2時間前までは風なんて少しもなかったのに!
自然災害について、農家が受けた被害に補助金は出るのか?
「ものすごく大きい範囲なら、考えられるというレベル。個人では容易には出さない」。
それにしても、強風でユリが損害を受けた一件は、自然災害の中でも特に辛さを残したものだったという。早河はユリの件で、「農業続けていけないかも」と思いながら、それでも頑張っていた。そのときに起きたのが、倉庫の崩落だったのだ。
【予防はできたか】
今回の事故を予防する機会はあったのか。これについて、早河は次のように答えている。
確かに、屋根に積もった雪をどかせば予防はできた。ただし、今までの何十年という経験から、「98%くらいはノーマークでいい」という判断をした。ものすごい大雪ならば「大丈夫かな」と見に行ったが、そうではなかった。本来ならば、(屋根からずり落ちて)抜けていく量の雪だったと判断した。
早河は「これをもって過信と言うのでしょうか」とする一方、「(予防の機会があったかと言えば)全くその通り」だと述べた。
私の目には、「弱った被災者」ではなく、「責任を自ら引き受ける事業主」に見えた。
【最後に】
早河はこの事故より前から、機械に頼らない農業を目指していた。それにのっとった品目が夏イチゴである。私が取材した時点では、「今まで経営の20%だったが、100%に近付けようかと思う」と語っている。
見方によっては、機械に頼る形から移行する流れの途中で、今回の機械倉庫崩落が起きたとも言える。痛手だが致命傷を避ける経営判断を、あらかじめ取っていたと考えることもできる。
事故の後でも、早河は他の農家に学びに行くことや、家族および出会った人に思いやりを持つことを忘れてはいない。将来的に、復旧どころか事故前よりも良い商品を作り/造り、より多くの人を笑顔にすることはあり得る。私はその可能性は高いと見ている。
ただし、これからまた頑張る前に、ガレキの撤去で資金的な助けを必要としている。
(取材・執筆=真木風樹。本文の文責は真木風樹にあります)。
2013年3月25日月曜日
2013年1月2日水曜日
三人目【Shintaro Yosida】PULLの権化
吉田慎太郎のことをもう一度よく知るため、僕は11月某日、石川穣一(26)と会ってきた。彼は吉田の仕事仲間。吉田のことを「頼れるアニキ的存在」と語っている。
なお、僕は、吉田について次のような疑問を胸に抱いていた。
(1)仕事人間なのか。つまり、仕事のことしか考えていないのか。
(2)なぜセミナーにお金を投資するのか。そこで学んだことはどう生きているのか。
石川への取材は、この二つの問題をはっきりさせるためと言える。なお、”草食系” なのかという問いはもうない。前編で述べたような理由から、”草食系” という用語自体から離れることにした。
前編はこちら
【仲間から見た吉田】
石川と僕が二人で会ったのは、千葉県柏市にあるカフェ。吉田と石川の思い出の場所だ。
ここではアジアのエスニック料理も食べられる。ほのかな照明、木で出来た机と椅子の感触、アロマの香り。
ひとつひとつが優しかった。
石川も優しくて柔らかい雰囲気の男だ。こういうところは吉田と似ているかもしれない。
石川は吉田についてたくさんのことを教えてくれた。
レバ刺しが好きなこと。それが食べられなくなると聞いて、無表情のまま落ち込んだように見えたこと。
単調なしゃべり方が仲間うちで物真似されていること。それだけで吉田の真似だと伝わること。
基本的に待ち合わせに遅れるということ。
何だか、聞いていてクスリと笑ってしまう。
そのようなところも含めて、石川は吉田のことを信頼している。石川は「会って1年で、こんなに信頼関係築けると思っていなかった」と語った。
【二人の出会い】
石川が吉田に会ったのは1年前。最初はmixiで知り合った。吉田のプロフィールを見て面白いと思い、自分からマイミク(Facebookで言うフレンド)の申請をした。
直接知り合ったのは、吉田が開いたSNS活用セミナーに参加してから。内容ではなく、吉田に関心があった。自分の周りにはいないタイプだったからだ。
石川は当時、お勤めの仕事ばかりで自分の時間がなかった。本当は絵の勉強がしたかった。「自分はこのままでいいのかな」と思っていたときだった。
セミナーを聞いてから、吉田のように複数の収入源を持ち、雇われない生き方について「自分とは違う世界なのかなあ」と思った。それでも、石川は「やりたいことをやらなきゃもったいないじゃん」と考え、吉田から学ぶことにした。
【ライバル企業の情報も提供】
石川が吉田に何の仕事をしているか聞いたとき、まず出てきたのがiPhoneの代理店事業。
石川はちょうどiPhoneが欲しかった。なので、「auにしようかSoftBankにしようか迷っているんですよね」と言ってみた。
吉田はSoftBankと提携していたが、「auの意見も聞いてみようか」と言って、au側の代理店事業をしている、自分の妹を紹介した。
石川は吉田について、相手が求めるものを提供する人と述べた。また、無理に相手の進路や選択を変えようとはしないし、エゴでものを言わないとした。そういうところが信頼されているようだ。
あくまでも判断材料をあげることにとどめる。
そして、話を聞くことを大事にしている。吉田と石川が話しているとき、両方が話そうとした瞬間、吉田は「いいよー」と譲る。そして、人のことを面白おかしくからかったりしない。だから石川は、自分の悩みを吉田に打ち明けることができた。
【疑問の答え合わせ】
(1)仕事人間なのか
石川は、吉田の学生時代からの友人兼ビジネスパートナーと、吉田の一日について想像したことがある。その友人によれば、吉田は起きたら静かに歯を磨き、セミナーの音声を聞き、ひたすら仕事をこなすだけだろうという。淡々と。
僕は吉田のことを、仕事の話しかしない人だなあと思っていた。
再取材をしてみて分かった。
やはり吉田は、仕事の話しかしないようだ。
ただし‥
真木「そういうところが、めちゃくちゃ愛されてるんだって分かりましたよ」。
石川「そうですね。愛されてますよ(笑)」。
ちなみに、石川は吉田と仕事をすることになってから、吉田からよく電話が来るようになったのを喜んだ。ここでも仕事の話が多かったが、それで石川は、「吉田さんに認めてもらいたいなあ」と思った。
なお、石川によると、吉田は夢について「俺はあんまり、そういうのない」と述べていたという。
夢に淡白で、遊びもしないと語る仕事人間。拍子抜けするほど仕事の話ばかり。だけどそこが慕われる。
吉田は、そういう、仕事人間。
(2)なぜセミナーに投資するのか
吉田は30万円はする高額セミナーにお金を投資している。僕には理由が分からなかった。
石川は、この点について「勉強するのが好きみたい」と言っている。
吉田は以前に取材した際、セミナーで学んだことを自己成長につなげるのが好きだと述べていた。
自己成長って何だ?
これは、昔は物欲や自分のことばかりだったのが、今は周りに刺激を与えること、人間関係に関心が移ったことを指しているらしい。
石川と話してから僕は「たぶん、人間関係に関心が移ったことが、慕われていることにつながっているのだろう」と考え、この日の取材を終わりにした。
僕がカフェを去るとき、石川は玄関まで見送ってくれた。彼はこの後も用事があってカフェに残った。石川がこのカフェで吉田と会ったときも、吉田に同じように見送ってもらったのだという。
【吉田との再会】
──ということがあったんですよ。
後日、吉田とは彼主催のTwitterセミナーでまた会えたので、僕は石川と会ったこと、見送りをしてくれたことを伝えた。
真木「逆に吉田さんも見送りしてあげていたらしいですね」。
吉田「そうでしたっけ?忘れてました」。
そうか。
この人、自分がしてあげたことを忘れてるんだ。だから、自己成長の結果を具体的に話せなかったんだ。エピソードを忘れているから。
声高に自分のアピールをしない人。だから、一見つかみどころがない。
だけど、知れば知るほど味が出る。
だから、レッテル貼らないでよく見てみよう。自分の目で。
どんな人なのか、自分の感覚で判断しよう。
ちなみに、僕が今回の取材を通し、”草食系起業家” の代わりに考えたあだ名は ”PULLの権化(ごんげ・・・※)”。
当たっているかな?吉田のことを、きちんと見ることができたかな?
それから、今回の記事の冒頭にあった似顔絵は石川が描いたもの。記事の発表に当たり、極秘で準備をしてもらった。文章と絵でジャンルは違うけど、どっちがよりよく見れたかな?
(※)”PULLの権化”・・・旧来の、目標のために「うおー!」と自分の意思を通そうとするのを ”PUSH” とするなら、脱力感たっぷりに淡々とこなす吉田の仕事ぶりは ”PULL”。恋愛も、告白されてから始まるそうだから、生き方自体が ”PULL” と言える。
【Shintaro Yoshida】
mixi⇨FREESTYLE
twitter⇨@shin_freestyle
Facebook ⇨吉田慎太郎
アメブロ⇨FREESTYLE〜自由な起業〜
Twitterセミナーの様子。緻密なノウハウを惜しみなく語る吉田。
(取材・執筆=真木風樹。本文の文責は真木風樹にあります)。
2013年1月1日火曜日
三人目【Shintaro Yoshida】そのレッテルを捨てろ
世の中には、「とらえどころのない人物」がいる。「どういう人?」と聞かれても、一言では表せない。形容し尽くせない。
しかし、人間は他者を見るとき、「◯◯の人」として認識しないと覚えておくことができない。形容しがたいその様子を無理にでも表現するため、人はレッテルを必要とする。「草食系男子」などがそれだ。
今回は、なぜか「草食系」に分類された人物のお話。
────────────────
某日、真木(筆者)の自室にて。
真木「うーん、あの人は ”草食系男子” なのか?この本にある説明に当てはまるのかなあ」。
僕はこのとき、「吉田慎太郎」という人物の記事を書いていた。彼は 草食系起業家 というキャッチフレーズで呼ばれている。ただ、会って取材した印象として、草食系に分類してよいのかよく分からないのだ。
では、草食系ではないとしたら、一体彼は何者なのか?ほかにふさわしい言葉が見つかったわけでもない。僕はモヤモヤしていた。
真木「あー書けないよー」。
何にせよまずは、彼と直接会ったときに見たもの、聞いたことを、ありのままで書いてみようと思う。
────────────────
吉田慎太郎(29)。髪はミディアムで襟足(えりあし)が長い。物腰は柔らかく、力まず淡々と話す人物だ。セミナー講師、インターネットのアフィリエイト、コンサルタント、IBOなど複数の仕事をしている。
この日、池袋のファミレスで僕らは会った。彼はトンカツ定食を頼んでいた。
真木「まずは、吉田さんの、ここまでの歴史を教えてもらえますか」。
吉田は「そうですね・・・」と語りはじめた。
【月収30万超えの高校生】
1983年、吉田は千葉県柏市に生まれた。彼が高校生だったころに両親は離婚しており、彼は高校を卒業したら働くよう言われていた。
ただし、吉田は「(それだけでは)ヤバそうだな」と考えたため、高校生でありながらお金の稼ぎ方を調べる。授業中に机の下でケータイをいじって情報収集していた。二つ折りの、白黒画面のdocomoのケータイから、問題解決の糸口を探していた。アルバイト代の全額に当たる6万円を毎月、ケータイ代に注ぎ込んだ。
結果、HPやメールマガジン(メルマガ)に広告を載せて収益を得ることに成功。月30〜40万円を得るようになった。
【経営者になる】
卒業後は就職も進学もしなかったが、月収200万円になった。19歳の頃には会社を設立した。
稼いだお金で物欲を満たしまくった。ルイ・ヴィトン LOUISVUITTON やクロムハーツ Chrome Hearts といったブランド品を買い漁る毎日。朝は口座から5万円を引き出し、1日でそれを使い切るという日々だった。30万円はする黒革のソファも買った。車にテレビにウオーターベッドも。欲しい物を買う瞬間は快感だったが、買い尽くしたときの感想は「面白くなかった」という。
一方、精神面では満たされておらず、従業員を雇うストレスから深夜は悪夢にうなされた。
これには説明が要るだろう。経営者は価値をつくろうとする一方、従業員は「出社すればお給料が出る」という考えで仕事をする。吉田が従業員を叱りたい場面もあったが、従業員は元は友達だったため、関係がギクシャクした。
病院に行くと「うつ」と診断された。このままでは危ないと考え、会社を休止して就職した。
【就職から複数事業へ】
それから、ケータイショップで販売の仕事を始めた。精神的に安定はしたという。吉田は社益を考える感覚があったため、トップセールスになった。ただし、好成績にもかかわらず、彼のお給料は手取りで23万円前後。大卒で年上の人より少なかった。
努力や成果が収入に反映されない。
このことで吉田は、お勤めについて「守られているけど、自分では決められないんだな」と再確認した。あらためて、ほかの事業を開始。副業を一つずつ増やして収入を拡大し、若くして会社をリタイアした。現在では10個ほどの商材を持っている。
収入面だけでなく、時間や人間関係のバランスも取れた仕事の仕方ができているという。
【吉田の謎】
歴史を一通り聞いた後は、吉田の価値観を聞くことにした。全質問を通して僕は「つかみどころがない」という印象を受けた。
(1)お金の使い方
吉田は、経営者だったころは若かったため、お金の使い道が分かっていなかったとの見方を示している。
真木「今なら何に使いますか?」
吉田「高額セミナーとかにお金を出して、自分が成長したり、勉強したりすることに使います」。
彼は、1回30万円はするセミナーについて言っている。今ならお金を自己投資に使うという。
それにしても、なぜセミナーにそんなにお金を使うのだろうか。この日の最後まで僕には分からなかった。
(2)メッセージ
真木「世の中や、これから出会う人にメッセージってありますか?」
吉田「そうですね・・・」。
・・・数秒の沈黙が続いた。もしかしてメッセージはないのか?
吉田「好きなことを仕事にしたらいいんじゃないでしょうか」。
好きだったら会社員でもいいけれども、せっかく人生の時間を使っているのだから、よく吟味してほしいという。
正論である。真っ当すぎて感慨がわかなかった。
(3)好きな遊び
吉田「自分、遊ばないんですよね」。
身もフタもない。話が続かなかった。
そのときである。僕は意外なことに気付いた。
…お分かりいただけただろうか?
吉田はトンカツをばっちり食べたが、キャベツは残している!
これは「俺は草食系ではない」という宣言だろうか?
取材は、キャベツが残ったまま終わった。
果たして、吉田のことを草食系と呼んでいいのだろうか?
────────────────
・・・というわけである。
だから僕は、自室で悩んでいた。
ギラつきのないさっぱりした人間にも見えるし、「仕事人間」にも見える。ただし「仕事人間」と言っても、昭和風の、書類の山を机に乗せて目から炎が出ているようなモーレツ系でもない。
一体、どう表現すればいい?
【そのレッテルを捨てろ】
”草食系男子” という用語について。『現代用語の基礎知識2012』によれば、「性欲が前面に出てこない内気な男子」とされている。2013年の最新版も同様だ。
吉田は一応、この定義に当てはまる。吉田の今までの恋愛は必ず告白されてから始まったのだという。それに僕が見る限り、性欲を前面に出すタイプではいない。
ただし、性欲が前面に出てくる男子って、そんなに多数派なのか?少し前はいっぱいいたのか?
恋心を押し殺して特攻した戦中男子も草食系か?
この定義に従うと、世の中は草食系男子だらけということになる。
この用語は、かなり大雑把な、しかも意味の定まらない言葉なのではないか?
補足すると、”草食系男子”という用語は時代とともに少しずつ意味も形態も変わってきているようだ。
使われはじめたのは2006年、深澤真紀というコラムニストの著書『草食男子世代─平成男子図鑑』からだとされる。この見方に従えば、深澤がこの用語の名付け親ということになる。
しかも、この時点では”草食男子” であり、”系” はなかった。
深澤は「恋愛やセックスにガツガツしていなくて、男女の友情も築ける存在」という、前向きなニュアンスでこの言葉を使ったのだった。
ところが、時と共に使われるニュアンスが変わる。女子からは「男子がオクテだから恋愛が始まらない」と言われ、目上の世代からは「物欲がないから消費もしない」と言われるようになる。
少子化も、車が売れないのも、草食系男子のせいだと思われているかもしれない。
さて、ここまで意味が拡大した用語で人を表現していいものか。
雑談ならまだしも、このページは取材した相手の「在り方」「様子」を真面目に伝えるためにある。
草食系 とレッテル貼りすれば記事はラクに仕上がる。ただし、それは安易な言葉を使って誤魔化すことだ。「吉田慎太郎」というテーマと格闘するのを放棄することになる。
真木の敗北宣言になるのだ。
「僕は吉田さんを表現できません。僕の理解力と表現力では無理です。だから草食系ってことにして、それ以上考えるのをやめます」と言っているようなもの。
それでも、ゴマカシを気にせず生きていくこともできる。だけど、僕は、それが、嫌だ。
だから、草食系男子 という表現はやめよう。そのレッテルをはがして捨てて、「吉田慎太郎」のありのままを見る。
もう一度書いておく。
レッテルを捨てて、ありのままを見るのだ。
やることはシンプルだ。もう一度取材するんだ。今度は別の角度から。
後編に続く
(取材・執筆=真木風樹。本文の文責は真木風樹にあります)。
2012年12月3日月曜日
二人目【Daisuke Hirano】(後編)報われる理想
平野大輔は、会社では良い評価を受けていなかった。ただし、例外もいた。
社長である。
社長は平野のことを「自分に似ている」と言っていたという。この社長は創業者である。「起業のために御社で勉強したい」と語っていた平野は「創業者」的であるため、「従業員」向きではなかったのかもしれない。
「従業員」とは、「業(仕事)に従う人」である。逆に「業を創る人」が「創業者」、「業の主となる人」が「事業主」だ。
現在、「従業員」をやっているが評価されていない人、価値を発揮できていない人は聞いてほしい。あなたはもしかしたら「創業者/事業主」的なのかもしれない。既存の業務の枠を出てしまうほど、理想が大きいのかもしれない。
【事業主・平野大輔】
平野は現在、複数の事業を回している。そのうちの一つはアムウェイAmwayだ。
話は、平野が会社員2年目だった頃の6月に伝わってきた。聞きたくて聞いた話ではなかったが、「製品が全額返品できる」という情報に「耳のシャッター」が開き、正座をして聞いた。
あなたが「アムウェイ」と聞いて連想するもの、あるいはグーグル Googleで検索して出てくる内容と、平野がやっているアムウェイはだいぶ違うかもしれない。
平野は自分から誘うという方針を取っていない。勧誘と取られることをしたり、迷惑なことをしたりするのは嫌いだ。
「聞きたくない奴に聞かせるもんじゃない」とはっきり述べている。
ではどうやっているか?彼はSNSをメディアとして捉え、自分の価値観を発信。価値観に共鳴した人に対し、「教えてください」と言われたらアムウェイとは何かを教えている。
平野は現在、かなりストレスのない状態でアムウェイなど諸々のビジネスを展開している。ただし、本サイトでは、登場人物に都合の良い話ばかり流すことを目的としていない。
彼が初めは苦しむこともあったことを、明らかにしたい。
平野はアムウェイを始めて1年ほどで、会社員と同程度の月収をアムウェイで得られるようになった。そこで自信を付けて会社を辞めた。ただし、まだそれだけで食べていける段階には至っていなかった。
そこで、事業をもう一つ始める。「老人介護の現場におけるコミュニケーションの調整」という事業を始めるが、1カ月で契約を打ち切られた。それからマーケティング・コンサルタントとして懸命にお客を探すも、依頼主が3カ月ごとに変わるような状態を3年続けた。
「自分でお金を稼ぐのは、こんなに大変なのか」と思った。「ラットレース」(食べていくため、走るように働き続ける状態)というのは従業員についてよく使われる言葉だが、平野はこの頃、ラットレース状態に陥った自営業者だった。
【 ”自分ブランド” をつくる】
そこで、平野は自分のブランドイメージをつくることにした。”起業ネタ発掘の達人” としてのブランドを確立。依頼主を追い掛けるのではなく、自分のことを選んでもらうことにした。
情報や価値観をSNS、ブログ、メルマガで発信。セミナーを開いたり、起業ネタをコンサルタントしたりしたら、功を奏した。
例えば、セミナーに参加した37歳の女性は、思わぬ起業ネタを平野に発掘されている。彼女が「わたしは可愛いわけじゃないけど、必ず告白されてから恋愛が始まる」と言うと、他の参加者は「すごい」と感心した。
彼女自身にとっては、それが起業ネタになるのは意外だったそうだ。だが、平野は「人からホメられることは何ですか?」という質問で、彼女の長所を引き出した。
【何でも表彰】
平野は他にも、パーティー・オーガナイザーとして、自分も周りも楽しませつつ、それを事業にしている。今年10月には、「少子化対策」と銘打ってハロウィンパーティーを開催した。
パーティーは、各スタッフが当日最後の最後まで自分の判断で場を盛り上げた。それぞれができることを見つけ出し、得意なことに力を注いだ。責任は平野が引き受け、各スタッフは「俺が/わたしが主催者だ」と名乗ることを認められていた。結果、全員がリーダー意識を持った集団になった。
そして、スタッフ同士の二次会が大盛り上がり。そこで平野は、スタッフ一人一人を表彰した。「集客MVP」だとか「司会で盛り上げてくれた人」はもちろん、「クビレが素敵な人」「遠方からわざわざ来てくれた人」といった理由でも表彰した。
一見よく分からない理由だが、尊敬の気持ちに満ちた場となった。
互いが互いを称え合い、お酒を一気に飲み干した。朝まで飲んでいたにもかかわらず、多くのスタッフが「感動のあまり寝なかった」と口にしていた。
平野は、「人をありのままで認める」ことが好きだ。人の至らないところにばかり目を向け、あーだこーだ言うのではなく、「その人が今、持っているもの」に目を向ける。だから、全員のいいところを見つけ出した。
なお、平野は人の表彰ばかりで、自分のことは称えていなかった。後日、周りがお返しに平野を表彰しようと、彼には極秘で寄せ書きを作る。冒頭の写真がそれだ。感謝は倍になって返ってきた。
【報われる理想】
平野は現在、経済的にも好ましい状態になっている。妻の誕生日(2月5日)には毎年、モルディブ、サイパン、グアムに共に旅行に行っている。2013年には、ニュージーランドに行く予定だ。
ここで、前編から読んでいる人には疑問がわくことだろう。
「教育という理想はどこに行った?」
確かに彼は現在、いわゆる学校の教師でもなければ、官僚として教育制度をつくっているわけでもない。
しかし、平野は「教育」をやっている。「本人が本来やりたいことを生かす」という形で実践している。
ハロウィンパーティーには、平野のコンサルを受けた女性が動画撮影係として参加していた。彼女は薬剤師をやりつつ、映画監督を志望していた。やりたいことと現状とのせめぎ合いで悩んでいたとき、Twitterを通じて平野とコンタクトを取った。
平野に相談した結果、映画監督としての仕事を始めるられることに。「こうだったらいいな」と思っていたことを実現したのだ。
平野はこれについて、「僕がコンサルだから実現できたわけではない」と主張している。
本当の理由は、「今持っているものを生かそう」というスピリットだという。彼によれば、アムウェイにはそのスピリットがある。
平野は語る。
「僕がやりたいのは、本人が本来やりたいこと、内側から来る原動力を生かすことなんだ」。
" Education "の語源は、「"ex(外)" に "duc(導く)" 行為」だとされている。その考えをなぞれば、外から内へ知識を詰め込むことではなく、内から外へ才能を解放することこそが、「教育」である。
平野が教師ではなく官僚を志したのは、「教育」を根本的に変えるためだった。彼は今、紆余曲折(うよきょくせつ。曲がりくねること)を経て、もっと根本的な意味での教育を実践している。
従業員だった頃は、理想を持って仕事に取り組んでも報われなかった。今は、自分の理想に基づいて仕事を選んだり、つくったりしている。
理想は報われた。
留学や就職や起業を経て、時には遠ざかったりもした。けれど、最後にはより望ましい形で辿り着いたのだった。
【Daisuke Hirano】
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平野の理想は報われた。ただし彼は、自分が報われただけで「めでたしめでたし」とは考えていない。
「 ”こうだったらいいのに” という想いを実現してほしい」
「それに対して、ストレートに向かっていってほしい」
──というのが、彼のメッセージ。
だから、次はあなたが、自分の理想(こうだったらいいのに)を叶えてみてはどうだろう?
どうすればいいのか分からない?
では、相談してみよう。
すでに叶えている人に、相談してみよう。
(取材・執筆=本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者である平野大輔氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。
社長である。
社長は平野のことを「自分に似ている」と言っていたという。この社長は創業者である。「起業のために御社で勉強したい」と語っていた平野は「創業者」的であるため、「従業員」向きではなかったのかもしれない。
「従業員」とは、「業(仕事)に従う人」である。逆に「業を創る人」が「創業者」、「業の主となる人」が「事業主」だ。
現在、「従業員」をやっているが評価されていない人、価値を発揮できていない人は聞いてほしい。あなたはもしかしたら「創業者/事業主」的なのかもしれない。既存の業務の枠を出てしまうほど、理想が大きいのかもしれない。
ハロウィンパーティーを共催した仲間から、寄せ書きを受け取る平野(今年11月)
【事業主・平野大輔】
平野は現在、複数の事業を回している。そのうちの一つはアムウェイAmwayだ。
話は、平野が会社員2年目だった頃の6月に伝わってきた。聞きたくて聞いた話ではなかったが、「製品が全額返品できる」という情報に「耳のシャッター」が開き、正座をして聞いた。
あなたが「アムウェイ」と聞いて連想するもの、あるいはグーグル Googleで検索して出てくる内容と、平野がやっているアムウェイはだいぶ違うかもしれない。
平野は自分から誘うという方針を取っていない。勧誘と取られることをしたり、迷惑なことをしたりするのは嫌いだ。
「聞きたくない奴に聞かせるもんじゃない」とはっきり述べている。
ではどうやっているか?彼はSNSをメディアとして捉え、自分の価値観を発信。価値観に共鳴した人に対し、「教えてください」と言われたらアムウェイとは何かを教えている。
平野はインドでもアムウェイを展開。この写真は、同国でのビジネス展開がどうなっているかを各地で説明した日のもの。一日で東京、大阪、東京と往復してきた。
彼によれば、インド人はチャンスにどん欲だという。「聞きたい人に情報を提供する」というのが、平野流だ。
平野は現在、かなりストレスのない状態でアムウェイなど諸々のビジネスを展開している。ただし、本サイトでは、登場人物に都合の良い話ばかり流すことを目的としていない。
彼が初めは苦しむこともあったことを、明らかにしたい。
平野はアムウェイを始めて1年ほどで、会社員と同程度の月収をアムウェイで得られるようになった。そこで自信を付けて会社を辞めた。ただし、まだそれだけで食べていける段階には至っていなかった。
そこで、事業をもう一つ始める。「老人介護の現場におけるコミュニケーションの調整」という事業を始めるが、1カ月で契約を打ち切られた。それからマーケティング・コンサルタントとして懸命にお客を探すも、依頼主が3カ月ごとに変わるような状態を3年続けた。
「自分でお金を稼ぐのは、こんなに大変なのか」と思った。「ラットレース」(食べていくため、走るように働き続ける状態)というのは従業員についてよく使われる言葉だが、平野はこの頃、ラットレース状態に陥った自営業者だった。
【 ”自分ブランド” をつくる】
そこで、平野は自分のブランドイメージをつくることにした。”起業ネタ発掘の達人” としてのブランドを確立。依頼主を追い掛けるのではなく、自分のことを選んでもらうことにした。
情報や価値観をSNS、ブログ、メルマガで発信。セミナーを開いたり、起業ネタをコンサルタントしたりしたら、功を奏した。
例えば、セミナーに参加した37歳の女性は、思わぬ起業ネタを平野に発掘されている。彼女が「わたしは可愛いわけじゃないけど、必ず告白されてから恋愛が始まる」と言うと、他の参加者は「すごい」と感心した。
彼女自身にとっては、それが起業ネタになるのは意外だったそうだ。だが、平野は「人からホメられることは何ですか?」という質問で、彼女の長所を引き出した。
【何でも表彰】
平野は他にも、パーティー・オーガナイザーとして、自分も周りも楽しませつつ、それを事業にしている。今年10月には、「少子化対策」と銘打ってハロウィンパーティーを開催した。
パーティーは、各スタッフが当日最後の最後まで自分の判断で場を盛り上げた。それぞれができることを見つけ出し、得意なことに力を注いだ。責任は平野が引き受け、各スタッフは「俺が/わたしが主催者だ」と名乗ることを認められていた。結果、全員がリーダー意識を持った集団になった。
そして、スタッフ同士の二次会が大盛り上がり。そこで平野は、スタッフ一人一人を表彰した。「集客MVP」だとか「司会で盛り上げてくれた人」はもちろん、「クビレが素敵な人」「遠方からわざわざ来てくれた人」といった理由でも表彰した。
一見よく分からない理由だが、尊敬の気持ちに満ちた場となった。
互いが互いを称え合い、お酒を一気に飲み干した。朝まで飲んでいたにもかかわらず、多くのスタッフが「感動のあまり寝なかった」と口にしていた。
平野は、「人をありのままで認める」ことが好きだ。人の至らないところにばかり目を向け、あーだこーだ言うのではなく、「その人が今、持っているもの」に目を向ける。だから、全員のいいところを見つけ出した。
なお、平野は人の表彰ばかりで、自分のことは称えていなかった。後日、周りがお返しに平野を表彰しようと、彼には極秘で寄せ書きを作る。冒頭の写真がそれだ。感謝は倍になって返ってきた。
10月のハロウィンパーティーにて。紫色のカツラをかぶっているのが平野。(撮影=池田弘樹)
なお、12月には「Xmas難民を救え!」と銘打ってクリスマス・パーティーが開催される。
【報われる理想】
平野は現在、経済的にも好ましい状態になっている。妻の誕生日(2月5日)には毎年、モルディブ、サイパン、グアムに共に旅行に行っている。2013年には、ニュージーランドに行く予定だ。
ここで、前編から読んでいる人には疑問がわくことだろう。
「教育という理想はどこに行った?」
確かに彼は現在、いわゆる学校の教師でもなければ、官僚として教育制度をつくっているわけでもない。
しかし、平野は「教育」をやっている。「本人が本来やりたいことを生かす」という形で実践している。
ハロウィンパーティーには、平野のコンサルを受けた女性が動画撮影係として参加していた。彼女は薬剤師をやりつつ、映画監督を志望していた。やりたいことと現状とのせめぎ合いで悩んでいたとき、Twitterを通じて平野とコンタクトを取った。
平野に相談した結果、映画監督としての仕事を始めるられることに。「こうだったらいいな」と思っていたことを実現したのだ。
平野はこれについて、「僕がコンサルだから実現できたわけではない」と主張している。
本当の理由は、「今持っているものを生かそう」というスピリットだという。彼によれば、アムウェイにはそのスピリットがある。
平野は語る。
「僕がやりたいのは、本人が本来やりたいこと、内側から来る原動力を生かすことなんだ」。
" Education "の語源は、「"ex(外)" に "duc(導く)" 行為」だとされている。その考えをなぞれば、外から内へ知識を詰め込むことではなく、内から外へ才能を解放することこそが、「教育」である。
平野が教師ではなく官僚を志したのは、「教育」を根本的に変えるためだった。彼は今、紆余曲折(うよきょくせつ。曲がりくねること)を経て、もっと根本的な意味での教育を実践している。
従業員だった頃は、理想を持って仕事に取り組んでも報われなかった。今は、自分の理想に基づいて仕事を選んだり、つくったりしている。
理想は報われた。
留学や就職や起業を経て、時には遠ざかったりもした。けれど、最後にはより望ましい形で辿り着いたのだった。
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平野の理想は報われた。ただし彼は、自分が報われただけで「めでたしめでたし」とは考えていない。
「 ”こうだったらいいのに” という想いを実現してほしい」
「それに対して、ストレートに向かっていってほしい」
──というのが、彼のメッセージ。
だから、次はあなたが、自分の理想(こうだったらいいのに)を叶えてみてはどうだろう?
どうすればいいのか分からない?
では、相談してみよう。
すでに叶えている人に、相談してみよう。
(取材・執筆=本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者である平野大輔氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。
2012年11月3日土曜日
二人目【Daisuke Hirano】(前編)空回る理想
「東大卒起業家」だからと言って敬遠は無用である。平野大輔は会社員として働いていた頃、良かれと思って何にでも挑戦しては失敗していた。「理想を持って頑張ったら裏目に出た」という経験は、読者にもあるのではないだろうか。平野もその一人である。
では、理想(「こうだったらいいな」という想い)を持つ者は報われないのか?いや、そんなことはない。報われる。平野の体験を通じて、このことを一緒に考えていこう。
────────────────
平野大輔と僕は家がご近所だ。僕たちはその日、空いた時間を見つけて大江戸線沿いの駅にあるパン屋でお茶をした。ご近所と言っても顔なじみというわけではなく、会うのは二回目。二人だけで話すのは初めてだ。
平野は東大卒の起業家。と言っても、堅苦しい感じはしない。会話の至る場面で面白いことを見つけては、顔をくしゃっとさせてリラックスした声で笑う。僕たちの間の雰囲気はすぐに打ち解けたものとなり、どちらも開けっぴろげに自分のことを語り始めた。
【二つの夢】
平野は1978年、愛知県に生まれる。学生時代は「官僚になる夢」と「起業家として”新しいこと”をやる夢」の二つを共に描いていた。
まずは「官僚になる」という夢について。
高校時代、平野は愛知県の進学校に通った。彼はその頃、「教育を変えたい」という夢を描き、教師になろうとしていた。
ところが彼の進路指導に当たった先生は、根本的なところから考える人だった。
「教育を変えたいなら教師になるのではなく、官僚になって制度自体を変えた方がいい」とのアドバイスを受けた。官僚になるために最適な道として、平野は東京大学を目指すことに。
ただし、平野の高校では、多くの先生が偏差値で大学の序列を決め、生徒の進路指導をしていたという。平野はこれに疑問を抱いていたため、もしも偏差値本位で東大を目指すように言われていたら、違う道のりを歩んでいたかもしれない。
飽くまでも、平野が東大を目指したのは、偏差値のためではなく、官僚になって教育制度を変えるためだった。
そして1998年、東大に合格。
【米国で見たもの】
東大では、2年間の前期課程を終えた後、後期課程へ。学生は入学後1年半を経た後、各々の志望と成績に応じて後期の各専門に振り分けられる。平野は、後期で教育学部に入ることを志望。合格した。
2年の終わり頃には、米スタンフォード大 Stanford University に留学する。その前からハワイ、シンガポール、マレーシアに遊びに行っており、「日本はいかに恵まれているか」ということに気付いたという。海外への渡航は気付きを与えてくれるもの。関心が向いていた。
──米国留学したときに思ったことは?
平野「海外の学生は、将来のこと考えとるなー、と」。
彼は学生時代、サークルでの飲み会などに疑問を感じていた。「これが将来、何の役に立つのだろう?」と。だから留学先で、将来について仲間と語り合えるのは刺激的だったに違いない。
留学のための渡米だったが、楽しいトリップも経験した。勉強だけでなく、夜はお酒を持って仲間の部屋に遊びに行く。さまざまな議題について、侃々諤々(かんかんがくがく、「遠慮せずに」という意味)議論した。
大学はシリコンバレー Silicon Valley にも近かったため、企業の先端技術を見ることができた。
音声認識に秀でた企業「ニュアンス社 Nuance」では、口頭の命令でコンピューターが動くのを見た。人がPCに"Open the mail".と言うとメールが開き、"Send it".と言うとそれが送信される。
今はApple製品に搭載された音声認識ソフト「Siri」があるので、音声にコンピューターが反応することにもなじみがあるだろう。しかし、平野がニュアンス社でこの光景を見たのは2000年頃のことである。
彼はワクワクした。これは、「新しいこと」だった。
「新しいこと」「人をビックリさせること」ができるITに関心を持った。発想はどんどん広がり、「学校をつくるのもいいかな」「ビジネスも面白そうだ」と思い付いた。
なお、留学先の仲間との会話では、ビジネスの構想も浮上していた。
彼が「海外の学生は将来のこと考えとるなー」と思ったのは、こういう理由だった。
【落としどころは「就職」。しかし・・・】
大学3年の頃には「官僚」の夢のために国家試験対策を始めた。しかし、米国での刺激的な経験があったので、いまいち勉強に身が入らない。
やっていたことは、色々な社長、起業した先輩、イベンターと会うことだった。僕にとってはこの時点で、「起業家」としての夢に完全に傾いている気がしてならない。いずれにせよ、そういった人たちと会うにより、ますます国試対策をつまらなく感じたという。
大学3年の秋に再度渡米。スタンフォード大学の仲間たちと会う。彼らが以前話した構想は、すでに前進していた。
そして帰国。日本の学生にはそういった構想など見受けられず、平野はまた落胆した。
ただし平野も、「学生のうちに起業するのは無理」と考え、就職活動を始める。ただし、起業のために勉強するつもりで就職することにした。
面接では「ゆくゆくは起業します」「3年で辞めます」と明言。1次試験までに落ちまくったが、内定は1社獲得した。どうやら、企業側にとっても平野の採用は「賭け」だったらしい。
起業のために勉強すると決めて入社した3年間、懸命にやって収穫を得ようと決めていた。鼻息を荒くし、何でもトライしていたという。
平野は当時のことを「今にして思えば、自分でも甘かったと思う」「”自由”の意味を勘違いしていた」と語る。
それでも、自分の提案が「あ、平野のかぁ」と言われてきちんと吟味されず、ほかの人が出した同様の案は通るということがあり、歯がゆい思いをした。失敗を重ね、自信もなくなっていた。
ここからは僕の私見になるが、理想だとか企業の改革だとかは、従業員に求められていないケースが多い。そんなことを考えるよりも、決められた仕事をこなすことの方が従業員には求められている。僕はそう考えている。
では、仕事に理想は邪魔なのだろうか?
この点については後ほど明らかにするが、平野は人の理想(=こうだったらいいな)を応援することを今は仕事にしている。彼自身、「本人が本来やりたいことを生かす」というやり方で、自分の理想の「教育」を実現している。
「会社で働くこと」以外にも仕事のやり方はあり、やり方次第では、「理想を求めること」との相性が極めて良くなる。必ずしも、会社勤めでは理想を追求できないということではない。だが、他の仕事の仕方も考えると、可能性は広がる。
「理想」と「仕事」の融合は、可能だ。
(取材・執筆=本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者である平野大輔氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。
では、理想(「こうだったらいいな」という想い)を持つ者は報われないのか?いや、そんなことはない。報われる。平野の体験を通じて、このことを一緒に考えていこう。
────────────────
平野大輔と僕は家がご近所だ。僕たちはその日、空いた時間を見つけて大江戸線沿いの駅にあるパン屋でお茶をした。ご近所と言っても顔なじみというわけではなく、会うのは二回目。二人だけで話すのは初めてだ。
平野は東大卒の起業家。と言っても、堅苦しい感じはしない。会話の至る場面で面白いことを見つけては、顔をくしゃっとさせてリラックスした声で笑う。僕たちの間の雰囲気はすぐに打ち解けたものとなり、どちらも開けっぴろげに自分のことを語り始めた。
「人生は常にネタづくりになる」との考えから、今回の取材は平野側も録画をしている。録画・配信アプリ「Ustream」を、後に自分で聞くために使う彼。ITの使い方に独特のアレンジが見える。
【二つの夢】
平野は1978年、愛知県に生まれる。学生時代は「官僚になる夢」と「起業家として”新しいこと”をやる夢」の二つを共に描いていた。
まずは「官僚になる」という夢について。
高校時代、平野は愛知県の進学校に通った。彼はその頃、「教育を変えたい」という夢を描き、教師になろうとしていた。
ところが彼の進路指導に当たった先生は、根本的なところから考える人だった。
「教育を変えたいなら教師になるのではなく、官僚になって制度自体を変えた方がいい」とのアドバイスを受けた。官僚になるために最適な道として、平野は東京大学を目指すことに。
ただし、平野の高校では、多くの先生が偏差値で大学の序列を決め、生徒の進路指導をしていたという。平野はこれに疑問を抱いていたため、もしも偏差値本位で東大を目指すように言われていたら、違う道のりを歩んでいたかもしれない。
飽くまでも、平野が東大を目指したのは、偏差値のためではなく、官僚になって教育制度を変えるためだった。
そして1998年、東大に合格。
続いては、撮影される真木の姿。
パン屋で互いに撮影し合う人たち(笑)
【米国で見たもの】
東大では、2年間の前期課程を終えた後、後期課程へ。学生は入学後1年半を経た後、各々の志望と成績に応じて後期の各専門に振り分けられる。平野は、後期で教育学部に入ることを志望。合格した。
2年の終わり頃には、米スタンフォード大 Stanford University に留学する。その前からハワイ、シンガポール、マレーシアに遊びに行っており、「日本はいかに恵まれているか」ということに気付いたという。海外への渡航は気付きを与えてくれるもの。関心が向いていた。
──米国留学したときに思ったことは?
平野「海外の学生は、将来のこと考えとるなー、と」。
彼は学生時代、サークルでの飲み会などに疑問を感じていた。「これが将来、何の役に立つのだろう?」と。だから留学先で、将来について仲間と語り合えるのは刺激的だったに違いない。
留学のための渡米だったが、楽しいトリップも経験した。勉強だけでなく、夜はお酒を持って仲間の部屋に遊びに行く。さまざまな議題について、侃々諤々(かんかんがくがく、「遠慮せずに」という意味)議論した。
大学はシリコンバレー Silicon Valley にも近かったため、企業の先端技術を見ることができた。
音声認識に秀でた企業「ニュアンス社 Nuance」では、口頭の命令でコンピューターが動くのを見た。人がPCに"Open the mail".と言うとメールが開き、"Send it".と言うとそれが送信される。
今はApple製品に搭載された音声認識ソフト「Siri」があるので、音声にコンピューターが反応することにもなじみがあるだろう。しかし、平野がニュアンス社でこの光景を見たのは2000年頃のことである。
彼はワクワクした。これは、「新しいこと」だった。
「新しいこと」「人をビックリさせること」ができるITに関心を持った。発想はどんどん広がり、「学校をつくるのもいいかな」「ビジネスも面白そうだ」と思い付いた。
なお、留学先の仲間との会話では、ビジネスの構想も浮上していた。
彼が「海外の学生は将来のこと考えとるなー」と思ったのは、こういう理由だった。
手帳術にもこだわり。時間の使い方を「Aやらなきゃいけないこと」「B投資になること」「Cどうでもいいこと」で分けて記録している。
【落としどころは「就職」。しかし・・・】
大学3年の頃には「官僚」の夢のために国家試験対策を始めた。しかし、米国での刺激的な経験があったので、いまいち勉強に身が入らない。
やっていたことは、色々な社長、起業した先輩、イベンターと会うことだった。僕にとってはこの時点で、「起業家」としての夢に完全に傾いている気がしてならない。いずれにせよ、そういった人たちと会うにより、ますます国試対策をつまらなく感じたという。
大学3年の秋に再度渡米。スタンフォード大学の仲間たちと会う。彼らが以前話した構想は、すでに前進していた。
そして帰国。日本の学生にはそういった構想など見受けられず、平野はまた落胆した。
ただし平野も、「学生のうちに起業するのは無理」と考え、就職活動を始める。ただし、起業のために勉強するつもりで就職することにした。
面接では「ゆくゆくは起業します」「3年で辞めます」と明言。1次試験までに落ちまくったが、内定は1社獲得した。どうやら、企業側にとっても平野の採用は「賭け」だったらしい。
起業のために勉強すると決めて入社した3年間、懸命にやって収穫を得ようと決めていた。鼻息を荒くし、何でもトライしていたという。
平野は当時のことを「今にして思えば、自分でも甘かったと思う」「”自由”の意味を勘違いしていた」と語る。
それでも、自分の提案が「あ、平野のかぁ」と言われてきちんと吟味されず、ほかの人が出した同様の案は通るということがあり、歯がゆい思いをした。失敗を重ね、自信もなくなっていた。
ここからは僕の私見になるが、理想だとか企業の改革だとかは、従業員に求められていないケースが多い。そんなことを考えるよりも、決められた仕事をこなすことの方が従業員には求められている。僕はそう考えている。
では、仕事に理想は邪魔なのだろうか?
この点については後ほど明らかにするが、平野は人の理想(=こうだったらいいな)を応援することを今は仕事にしている。彼自身、「本人が本来やりたいことを生かす」というやり方で、自分の理想の「教育」を実現している。
「会社で働くこと」以外にも仕事のやり方はあり、やり方次第では、「理想を求めること」との相性が極めて良くなる。必ずしも、会社勤めでは理想を追求できないということではない。だが、他の仕事の仕方も考えると、可能性は広がる。
「理想」と「仕事」の融合は、可能だ。
(取材・執筆=本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者である平野大輔氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。
2012年10月19日金曜日
一人目【Yumika Abe】自信がなくても、いいよ(後編)
【絶好調のきっかけ】
父のことを引きずり、自信を持てなかった時期を「過去のことだ」と切り離せるようになったのはつい最近(今年3月〜8月)、友人のコーチングを受けてからだ。
馴染みのない方には、「心の体操」と思ってほしい。ユミカが受けたのは「ポジション・チェンジ」というもので、内容は以下の通りである。
あなたは椅子に座っている。目の前の椅子は空席だが、そこには過去のあなたが座っていると想像する。
──過去のあなたは、現在のあなたを見てどう思うか?──
──現在のあなたは、過去のあなたに何と言ってあげるか?──
つまり、「現在」と「過去」、2人のあなたが語り合うのである。
ユミカの前には12歳の、一番辛かった頃のユミカ。
12歳のユミカは今のユミカを見て、「すごい!」と驚いた。
「友達がいっぱいできてる!」
「ニコニコ笑ってる人生なんだ!」
「お茶するだけであり得ないような億万長者と、一緒に旅行に行ってる!」
「わたしの人生、良くなっていく以外にないんだ!」と。
12歳のユミカから見ても、そのことに絶対の信頼ができるようになった。
現在のユミカからも12歳のユミカに対して言った。
「あんたの人生、何にも心配要らないよ」と。
「大丈夫だよ。十数年経ったら、あんたこうなってるから」と。
「ポジション・チェンジ」の結果、父親のように離婚を繰り返す「しょーもない」中年男がいたとしても、「自分には関係ないよ」と思えるようになった。
ユミカの心の中で、「自信のなさ」は「父」と結び付いていた。
しかし、「父」から受けた諸々の影響も「関係がなくなった」。
以降、彼女は ” 絶好調 ” なのだ。
ユミカ「恋愛では、昔は ”この男(ひと)がわたしを救い出してくれる” という依存の気持ちがあったの。でも、依存しなくなった途端、 ”恋愛って何だ” と思うようになっちゃった」。父のことを引きずり、自信を持てなかった時期を「過去のことだ」と切り離せるようになったのはつい最近(今年3月〜8月)、友人のコーチングを受けてからだ。
馴染みのない方には、「心の体操」と思ってほしい。ユミカが受けたのは「ポジション・チェンジ」というもので、内容は以下の通りである。
あなたは椅子に座っている。目の前の椅子は空席だが、そこには過去のあなたが座っていると想像する。
──過去のあなたは、現在のあなたを見てどう思うか?──
──現在のあなたは、過去のあなたに何と言ってあげるか?──
つまり、「現在」と「過去」、2人のあなたが語り合うのである。
ユミカの前には12歳の、一番辛かった頃のユミカ。
12歳のユミカは今のユミカを見て、「すごい!」と驚いた。
「友達がいっぱいできてる!」
「ニコニコ笑ってる人生なんだ!」
「お茶するだけであり得ないような億万長者と、一緒に旅行に行ってる!」
「わたしの人生、良くなっていく以外にないんだ!」と。
12歳のユミカから見ても、そのことに絶対の信頼ができるようになった。
現在のユミカからも12歳のユミカに対して言った。
「あんたの人生、何にも心配要らないよ」と。
「大丈夫だよ。十数年経ったら、あんたこうなってるから」と。
「ポジション・チェンジ」の結果、父親のように離婚を繰り返す「しょーもない」中年男がいたとしても、「自分には関係ないよ」と思えるようになった。
ユミカの心の中で、「自信のなさ」は「父」と結び付いていた。
しかし、「父」から受けた諸々の影響も「関係がなくなった」。
以降、彼女は ” 絶好調 ” なのだ。
ごめん、うなじに集中して聞いてなかった。
【自信がなくても、いいよ】
ユミカの今を知ったら、12歳のユミカでなくても驚くだろう。
仲間とバリに行き、パーティーのためだけにアマン・リゾーツのホテルを貸し切っておきながら泊まるのは別の場所。プライベートビーチでは、御一行のために色とりどりの花びらで道が用意されている。そこでインドネシアの宮廷舞踊レゴンダンスを鑑賞する。
僕と会っているこの日は、マカオから帰ってきたばかり。10月には祖母に「親孝行」するため台湾に連れて行く。
ただ、今でこそ旅行を楽しみまくっているが、最初は飛行機が浮いたくらいで感動したそうだ。
ここまで、ユミカの過去が決して明るいものではなかったことを書いてきた。
だからと言って、本文は「キラキラ生きてる人にも暗い過去があった。だからあなたも自信を持って!」という話ではない。
「現在のユミカのような生き方は、自分には関係ない」と思う人もいるだろう。あなたは、「彼女には才能があったんだ」「運が良かったんだ」「自分とは違う」と思うかもしれない。
「やっぱり自信がない」という人へ。本文のメッセージは「自信を持とうよ!」というものではない。
むしろユミカの体験は、「自信がなくてもいいんだよ」ということを示している。
ユミカの高校時代、つまり自信がない頃の話である。人生を好転させるきっかけも知りはしない。そうでありながらユミカは、「わたしの人生は平凡なままでは終わらない」と思っていた。
「わたしは小っちゃく終わらない」と燃える気持ちはあった。
教室ではクラスメートが「地元の指定校推薦決まった!」とキャーキャー浮かれていた。大抵は地元に残る生徒ばかりだったが、ユミカは「絶対、群馬を出て東京に行く」と決めていた。
東京に出れば未来には期待できるのかなんて分からない。それでも、「格好良くて強い自分になりたい」「何にも負けない」という気持ちがあった。
あなたは普段、一瞬でも「このままでは終わらない」という気持ちになることがあるだろうか?根拠はなくていい。
ごうごうと燃え盛るキャンプファイヤーほどの火でなくてもいい。折角のバーベキューなのになかなか燃え広がらず、周りのみんなを待たせちゃう炭火くらいの、微(かす)かな火でもいい。
微かでも、火が消えていないなら、本文を読み進める甲斐(かい)はある。
僕「谷間見えてますけど?」
ユミカ「見せてますけど?」
【起業】
「ポジション・チェンジ」によってユミカは過去と決別したわけだが、それに先立つ転機として、彼女は起業をしている。起業したことは、毎日楽しく生きていることや、すごい人と旅に行っていることの起点となっている。そして何より、「女性としての経済的自立」を確保することになった。
2010年1月。六星占術によれば、この時を最後に彼女の「大殺界」(何をやるにも良くないとされる時期)が空けた。意思決定を占いに頼っているわけではなかった。だが、「新しく人と出会うこと」に対して心を開くことにした。
「大殺界」が空けた後の同年2月に浜崎あゆみファンのオフ会(mixiなどの交流サイトで知り合った人たちが、オフラインで集まること)があった。そこで出会った人から、起業の手だてを教えてもらうことに。
なお、この頃にユミカは水商売をやめ、芸能の仕事も始めている。色々なことを再編成する時期となった。
【使命】
ユミカがロイヤルミルクティーを飲み終わる頃には、過去の話はほぼ聞き終わっていた。
今度は、これからの使命を聞いてみた。
「女性を救いたいんですよね」。
彼女が望むのは、自分と縁あって知り合った女の子たちが一生食べることに苦労しない経済力を身に付けること。それまでお手伝いしてあげたいという。
何らかの手段にこだわることはないけど、女の子が経済的に自立できるようになったらキャバクラのスカウトとかいなくていい。フワフワと水商売などに就く子たちを、「ラクだよ」「稼げるよ」と上手いこと言って誘導しているのがスカウト。
(ただし、水商売や風俗という仕事にプライドを持って取り組む女性について、ユミカは敬意を払っている)。
苦しむ女の子たちに、もっと楽しい生き方があると教えてあげたい。水商売のように心を、風俗のように体を売らなくても、女性が経済的に自立している世界はある。今、ユミカ自身がそんな世界にいる。
「こっち見てみなよ」。
「あなたがやりたいことは何だろう?見つけてごらん?全部自由にソウゾウしていいんだよ?」
──それが、彼女のメッセージ。
ただし彼女は、「大丈夫!未来は輝いているから!」と言う女性ではない。
彼女はこう言っている。
──いつでも、わたしが話聞くから──。
「ちょろっと電話で話を聞いてくれるお姉さん」という存在。小っちゃいことでいいから相談していいお姉さん。
ユミカの話を聞いて僕は思った。
悩める女子は、まずは相談したらいい。
未来に期待できるのかなんて分からずに──でも、いいよ。
自信がなくても、いいよ。
【Yumika Abe】
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ブログ⇨http://dearwoman777.blog.fc2.com/blog-entry-203.html
僕「あ、そうだ。男に対しては使命ってある?」
ユミカ「別に(笑)まあ、経済力付けてね♥」
(取材・執筆=真木風樹。本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者であるアベユミカ氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。
一人目【Yumika Abe】自信がなくても、いいよ(前編)
アベユミカとのデートは2時間前に決まった。僕は彼女が待つビュッフェラウンジへの道のりを歩いている。
細い美脚と豊満なバストを兼ね備えた彼女は、「ユミカ様」と呼ばれることもある。確かに両立しがたい魅力だが、僕は絶対に「様」なんて付けない。
むやみに人を崇拝したり、あるいは逆に軽く見たりすれば、それが文を歪めることになるからだ。これは、相手がエラい「先生」でも、男を虜(とりこ)にする小悪魔でも、一切変わることはない。
そう、変わることはない。
ラウンジに着いた。彼女は男といた。何と、デートのお相手はもう1人いたのだ。
僕もそうだが、2時間前に彼女がFacebookに「誰か遊ぼう?デートしよ?笑」と投稿したのを見て、彼も来たのだという。
ちょこっと投稿しただけで短時間にデートの相手を複数見つけている。投稿したのは午後3時だから、来られる人間は限られているのに。す、すごいな。
あぁっ・・・ユミカ様っ・・・!
・・・やっぱり、「様」を付けてしまった。
ユミカ流は「気高く清く美しく」
僕は先にいた彼とバトンタッチし、ユミカと2人でカフェに移動した。なお、ここからはユミカと呼ぶことにする。
油断すると「ユミカ様〜ほえ〜( ´ ▽ ` )」などと言いそうになるが、ぐっと抑えておこう。他の人物を書くとき同様、敬称は省くことにする。
ユミカの言葉は気持ち良いくらいに自信満々。
「真木くん、こんないい女連れて歩いてると言うブランディングにもなるし、セルフイメージも上がっちゃうよ?笑」。
これは、一緒に歩いている僕も株が上がるし、自分自身へのイメージが上がってしまうという意味。自分へのイメージの高さというのは、成功する要素につながり得る。
この自信満々な発言も、冗談などではなく実際に当たっている。
ただし僕には気になることがある。ユミカの発言にはごくたまに、他人が経験しないような過去をほのめかすものがある。抗うつ剤に詳しかったりもする。
僕は、「過去に色々あったようですが」と切り出した。
ユミカの複数ある仕事のメインはマッサージ師。
だが本人が肩が凝って仕方ないという。そりゃあそうでしょうよ。
【ユミカの歴史】
「相談できる人なんかいなかったね。ははははは」。
過去のことに話が及ぶと、深刻さを感じさせない大胆な笑顔を見せてくれた。
彼女には、自信がなく、人に心を開くこともできなかった時期があった。そんな時期を「過去のこと」と思えるようになったのも、つい最近のことだった。
彼女の歴史を聞いてみよう。彼女は群馬にある父方の祖母の家で育った。両親は彼女が2歳の頃に離婚している。
父親は三味線を弾くことを仕事にしていた。「女遊びは芸の肥やし」ということなのか、女を取っ換え引っ換え。離婚歴は、「たぶん」5〜6回だという。一緒に暮らしたことのない子も含め、ユミカには異母きょうだいも多い。
小学2年生の頃には「ウチの家庭は人と違うんだ」と気付きはじめる。一緒に暮らした女性が夜中にいなくなったこともあった。ユミカは、父が女性に暴力を振るう男だというのも知っていた。4年生の頃には、父と付き合った女性たちの気持ちを想像するようになっていた。
また、借金取りが実家に来たこともあった。当然、居留守。それを悟られぬよう、夕飯時も電気を最小限にしていた。取り立て電話におびえていたため、電話が鳴ると今でもドキッとするという。
「自分の家庭環境は劣っている」「お金がない」「それは父のせい」という思いがあった。この劣等感は長引くことになる。
いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな言葉ひとつも望んでなかった
だから解からないフリをしていた
(浜崎あゆみ『A Song for XX 』より)
あゆの歌が好きで、特に初期のネガティブな歌詞に共感していた。
ユミカ「それだけネガティブだったんですよ(笑)今は微塵もないけど(笑)」
大学時代は、金銭的に実家に頼ることはできなかったため、奨学金を借りながら自力でバイトしていた。「自分で稼いでやるよ!」というくらいの気持ちだった。
彼女は水商売を始める。自信がなかったのに意外だと思えるかもしれない。ただし、彼女はその気になれば社交性を発揮できる人間だった。
それでいて他人に対し、「きっと自分の気持ちは分からない」と思っていた。だから「本当の自分」ではなく「数cmズラした自分」を見せていた。同じ大学の人にも水商売をやっていることを話していなかった。
さて、水商売を始めたものの、そこでも女の子が傷付く場面を目の当たりに。スカウトマンによって都合の良いように使われたり、ホストにはまってしまったりする女の子がいた。そして、心を曲げて接客する苦しみがあった。
「心を曲げる」苦しみについて。人は「思っていること」「言っていること」「やっていること」の間にギャップがあるときにストレスを感じる。一般的な会社員も、本音と建前を使い分けるときは嫌だろう。ユミカによれば、その点でお水の子たちの苦しみは会社員以上だという。
彼女たちは上手く駆け引きして立ち回っているように見えて、実際は心のバランスを崩すくらいに苦しんでいる。「うつ」になり薬剤を使う子もいる。ユミカ自身が抗うつ薬である「デプロメール錠」を摂取していた。
ユミカはこの頃、冗談っぽく「わたしキレイだから」などと言うようになってはいたが、家に帰ると落ち込んでいた。
長い間、自信など持てず、「わたしは何のために生まれてきたんだろう?」と悩み続けていた。
なお、デプロメール錠とは、抗うつ薬の一種であるフルボキサミンの商品名。これは、脳内でセロトニンのみを選択的に神経に取り込まれないようにすることで、脳神経のつなぎ目にあるシナプス間のセロトニン量を増やす薬「SSRI」の一種。脳内でのセロトニンの不足が、うつ病につながるとされる。よってSSRIにはうつ病などへの効果もあるが、▽吐き気▽焦燥感▽24歳以下の服用者が自殺を図るリスク──も指摘されている。
後編に続く。 【Yumika Abe】自信がなくても、いいよ(後編)
(取材・執筆=真木風樹。本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者であるアベユミカ氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。
細い美脚と豊満なバストを兼ね備えた彼女は、「ユミカ様」と呼ばれることもある。確かに両立しがたい魅力だが、僕は絶対に「様」なんて付けない。
むやみに人を崇拝したり、あるいは逆に軽く見たりすれば、それが文を歪めることになるからだ。これは、相手がエラい「先生」でも、男を虜(とりこ)にする小悪魔でも、一切変わることはない。
そう、変わることはない。
ラウンジに着いた。彼女は男といた。何と、デートのお相手はもう1人いたのだ。
僕もそうだが、2時間前に彼女がFacebookに「誰か遊ぼう?デートしよ?笑」と投稿したのを見て、彼も来たのだという。
ちょこっと投稿しただけで短時間にデートの相手を複数見つけている。投稿したのは午後3時だから、来られる人間は限られているのに。す、すごいな。
あぁっ・・・ユミカ様っ・・・!
・・・やっぱり、「様」を付けてしまった。
ユミカ流は「気高く清く美しく」
僕は先にいた彼とバトンタッチし、ユミカと2人でカフェに移動した。なお、ここからはユミカと呼ぶことにする。
油断すると「ユミカ様〜ほえ〜( ´ ▽ ` )」などと言いそうになるが、ぐっと抑えておこう。他の人物を書くとき同様、敬称は省くことにする。
ユミカの言葉は気持ち良いくらいに自信満々。
「真木くん、こんないい女連れて歩いてると言うブランディングにもなるし、セルフイメージも上がっちゃうよ?笑」。
これは、一緒に歩いている僕も株が上がるし、自分自身へのイメージが上がってしまうという意味。自分へのイメージの高さというのは、成功する要素につながり得る。
この自信満々な発言も、冗談などではなく実際に当たっている。
ただし僕には気になることがある。ユミカの発言にはごくたまに、他人が経験しないような過去をほのめかすものがある。抗うつ剤に詳しかったりもする。
僕は、「過去に色々あったようですが」と切り出した。
ユミカの複数ある仕事のメインはマッサージ師。
だが本人が肩が凝って仕方ないという。そりゃあそうでしょうよ。
【ユミカの歴史】
「相談できる人なんかいなかったね。ははははは」。
過去のことに話が及ぶと、深刻さを感じさせない大胆な笑顔を見せてくれた。
彼女には、自信がなく、人に心を開くこともできなかった時期があった。そんな時期を「過去のこと」と思えるようになったのも、つい最近のことだった。
彼女の歴史を聞いてみよう。彼女は群馬にある父方の祖母の家で育った。両親は彼女が2歳の頃に離婚している。
父親は三味線を弾くことを仕事にしていた。「女遊びは芸の肥やし」ということなのか、女を取っ換え引っ換え。離婚歴は、「たぶん」5〜6回だという。一緒に暮らしたことのない子も含め、ユミカには異母きょうだいも多い。
小学2年生の頃には「ウチの家庭は人と違うんだ」と気付きはじめる。一緒に暮らした女性が夜中にいなくなったこともあった。ユミカは、父が女性に暴力を振るう男だというのも知っていた。4年生の頃には、父と付き合った女性たちの気持ちを想像するようになっていた。
また、借金取りが実家に来たこともあった。当然、居留守。それを悟られぬよう、夕飯時も電気を最小限にしていた。取り立て電話におびえていたため、電話が鳴ると今でもドキッとするという。
「自分の家庭環境は劣っている」「お金がない」「それは父のせい」という思いがあった。この劣等感は長引くことになる。
いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな言葉ひとつも望んでなかった
だから解からないフリをしていた
(浜崎あゆみ『A Song for XX 』より)
あゆの歌が好きで、特に初期のネガティブな歌詞に共感していた。
ユミカ「それだけネガティブだったんですよ(笑)今は微塵もないけど(笑)」
大学時代は、金銭的に実家に頼ることはできなかったため、奨学金を借りながら自力でバイトしていた。「自分で稼いでやるよ!」というくらいの気持ちだった。
彼女は水商売を始める。自信がなかったのに意外だと思えるかもしれない。ただし、彼女はその気になれば社交性を発揮できる人間だった。
それでいて他人に対し、「きっと自分の気持ちは分からない」と思っていた。だから「本当の自分」ではなく「数cmズラした自分」を見せていた。同じ大学の人にも水商売をやっていることを話していなかった。
さて、水商売を始めたものの、そこでも女の子が傷付く場面を目の当たりに。スカウトマンによって都合の良いように使われたり、ホストにはまってしまったりする女の子がいた。そして、心を曲げて接客する苦しみがあった。
「心を曲げる」苦しみについて。人は「思っていること」「言っていること」「やっていること」の間にギャップがあるときにストレスを感じる。一般的な会社員も、本音と建前を使い分けるときは嫌だろう。ユミカによれば、その点でお水の子たちの苦しみは会社員以上だという。
彼女たちは上手く駆け引きして立ち回っているように見えて、実際は心のバランスを崩すくらいに苦しんでいる。「うつ」になり薬剤を使う子もいる。ユミカ自身が抗うつ薬である「デプロメール錠」を摂取していた。
ユミカはこの頃、冗談っぽく「わたしキレイだから」などと言うようになってはいたが、家に帰ると落ち込んでいた。
長い間、自信など持てず、「わたしは何のために生まれてきたんだろう?」と悩み続けていた。
なお、デプロメール錠とは、抗うつ薬の一種であるフルボキサミンの商品名。これは、脳内でセロトニンのみを選択的に神経に取り込まれないようにすることで、脳神経のつなぎ目にあるシナプス間のセロトニン量を増やす薬「SSRI」の一種。脳内でのセロトニンの不足が、うつ病につながるとされる。よってSSRIにはうつ病などへの効果もあるが、▽吐き気▽焦燥感▽24歳以下の服用者が自殺を図るリスク──も指摘されている。
後編に続く。 【Yumika Abe】自信がなくても、いいよ(後編)
(取材・執筆=真木風樹。本文の文責は真木風樹にあります。筆者である真木風樹と、取材対象者であるアベユミカ氏以外による無断転載・使用はお断りします。転載・引用の際はご一報ください)。